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10月12日、日本出版貿易株式会社出版部を発展的に解消して、会社設立。日本出版貿易は、昭和17年(1942年)創業。出版部門は、昭和24年(1959年)初めての英文書を刊行するとともに、海外の取引先の和文出版物など(その一部別掲、*印)を発行・編集制作してきたが、本来、出版物を中心とし雑貨などを含めて取次貿易業を主として経営してきた企業体質のため、系列子会社として独立させることにした。社長は、同社の望月政治社長が兼任。資本金五百万円。英文書は同社が販売を担当した。専任の社員は置かず出版部員が出向(後に解除、正式入社)。発足後初めての和文書は、ジョージ・ホウトン著、矢吹勝二訳『ゴルファーの心理』(390円)で、翌年3月までの第1期、約半年間の営業成績は19万円の赤字だった。
※▼米国日系人子弟のための日本語教科書『ワタシタチノニホンゴ入門上』(ロサンジェルスのアメリカ日本語教育会編纂、東京教育大学教授吉田精一監修、1960年日本出版貿易発行。A5判・114頁・上製、全カラー)。以下、同下巻と、一年から六年まで各学年上下巻。▼同じく『にっぽんごのほん一年上』(東京外国語大学教授釘本久春責任編集、1966年ハワイ教育会発行、日本出版貿易・小社製作。A5判・79頁・並製、全カラー)。以下、一年から六年まで各学年上下巻と中等科二年まで、並びにそれらに対応する教師用書、補助教科書『ともだち』『かきかたのほん』など。▼『ハワイ日本人移民史』(ハワイ官約移住75年祭記念、ハワイ日本人移民史刊行委員会編集、1964年布哇日系人連合協会発行。日本出版貿易製作。B5判・749頁・上製)など、北南米の移住者・移民関連書。
社長に日本出版貿易専務だった小澤武雄が就任。
英文書出版点数は55点と多いのに対して、国内販売用和文書は僅かに4点。昭和42年(1967年)、大山倍達著『ダイナミック空手』(1,400円)を、翌年、山田貞実・伊藤清忠共著『新しい紙の造形』(3,000円)を刊行した。両書とも英文書を切り換えて出版したもので、前者は『This is Karate』($15.00・1965年刊)、後者は『New Dimensions in Paper Craft』($10.00・1966年刊)から日本語版になった。『新しい紙の造形』は6回重版をし、収益に大きく貢献したが、英文書部門は厳しく、第3期までは欠損を続けた。米国内の書籍販売は書店の利幅が大きく、極めて低い掛率で販売せざるを得ない事情があった。第4期に初めての黒字決算。
同様に英文書からの和文版刊行が続く。山田玉雲(前記の著者、山田貞実氏の筆名)著『墨絵の技法』(3,000円)出版は、その後の水墨画、墨絵など絵画部門の嚆矢となった。1964年刊『Sumi-e in Three Weeks』など4点を合本とした1966年刊『Complete Sumi-e Techniques』がその元本。この年、6点を、翌年は12点を刊行。水墨画、武道、ヨガ関連書が主なもの。一方小社英文書を親本とする共同出版は、この年までに11ヶ国32点に達した。米、英、独、仏、伊、オランダ、ユーゴスラビア、スイス、スエーデン、フィンランド、ブラジルで、以後も増加する。
第6期末の主力の英文書は総売上の3分の1に減った。親会社の英文書圧縮方針と、円高による為替悪化により営業は困難となるが、和文書部門は活発化。翌年には松久朋琳著『仏像彫刻のすすめ』(3,200円)を刊行、ロングセラーとなり、彫刻部門がスタート。この部門は渡辺一生著『木彫講座(全12巻)』などにより、拡充されてゆく。
半額増資、資本金は750万円となる。
かつてない不況の年だったが、墨絵を中心とする絵画、仏教、武道、書道部門が好調だった。創業10周年、刊行点数は100点を越え、常備店も450店を数える。社長に吉崎巌が、会長に小澤武雄が各々就任。
「季刊水墨画」を創刊。
「季刊俳画」を創刊。第13期の新刊は和文書32点、英文書6点。大幅な円高に対処するため、英文書の米国制作を開始。小澤武雄会長が辞任、取締役相談役に。前年11月倍額増資、資本金は1,500万円になった。
3月、第14期末。期中、原油の大幅値上げ、いわゆるオイルショックを主要因としてインフレ傾向が強まり諸物価が高騰。『金子鴎亭の書業』(普及版16,000円)を刊行。日本出版貿易の方針変更により、前年7月より英文書の米国等への販売は、講談社インターナショナル株式会社(後に、講談社アメリカ株式会社に変更。販売実務担当会社はハーパー・アンド・ロー社)に切り替わった。7月、取締役築田力が脳出血のため死去。
前年より書道界の重鎮を臨書者とする『古碑帖臨書精選』三期全36巻の刊行に着手し、年末までに20巻を刊行。
「季刊南画」、「季刊仏画」(後に不定期刊)、隔月刊「墨絵」(後に季刊)を、1月、2月、3月にそれぞれ創刊。前2誌は短期間内に終刊。
1月、英文書事業を円滑に運営するために、ニューヨークに米国法人 Japan Publications (U.S.A.), Inc. を設立。小社の全額出資、副社長として藤原芳郎(嘱託)が現地で執務。英文マクロビオティック書の刊行が始まり、同部門はその後点数が拡大されていく。
3月、短期間にドルは170円へと40%もの下落をし、為替レートの悪化は英文書に大きな打撃を与えた。第20期、和文書の新刊は58点に増えた。
3月、為替レートはさらに急激に落ち込み 140円台に突入。英文書部門の赤字もふくらみ、翌第22期にはさらに増大した。昭和63年、小澤武雄監査役死去。同年小社は、日本出版貿易の関係会社になった。
3月、第23期では絵手紙、はがき絵関連書を刊行、好評を得て以後もこの分野は拡がる。当期、新たにパソコンを導入。
為替は円安に動き、3月の第24期末の平均売上単価は、前期の1ドル128円から143円へと戻した。10月より水墨画道具材料の販売を開始。
長期療養中の吉崎巌社長が死去、後任に高橋幸重が就任。
本年刊『週末画家入門』、翌年刊『小さな風景を描く』などの水彩画関連企画が徐々に受け入れられてきた。3月、第28期末の平均売上ドル・レートは106円、翌期には97円となり、英文書部門は回復を望めず和文書で補う。
「季刊墨絵」終刊。社長に桑原俊博、会長に高橋幸重が就任。8年9月、隣接の日貿ビルに移転。
7月、英文書の米国での販売実務担当会社が、オックスフォード・ユニバーシティ・プレス社に変更された。1998年5月、役割を終えた小社米国法人を閉鎖。
1999年のわが国の出版物総販売金額は4期連続のマイナス成長で1992年の水準に戻った。1997-2000年の減少率は累計で11.6%。3月、出版物再販制度は当面存続させると公取委が発表した。5月、社長桑原俊博が病気治療のため辞任し、後任に専務水野渥が就任。10月、創立35周年を迎えた。
5月、高橋幸重は会長を辞して相談役に就任。平成17年(2005年)3月31日相談役を辞任。
10月、創立40周年。
5月、水野渥は社長を辞して会長に就任。社長には新たに取締役川内長成が就任した。
2月、文京区本郷に新社屋を取得し移転。
10月、創立50周年を迎えた。
8月、新しいジャンルの企画として『サラリーマンイラストブック』を刊行、続く9月刊『女子中・高生のイラストブック』と共に大きな反響を呼んだ。
5月、『男子中・高生のイラストブック』を刊行。前年刊行の2点も順調に版を重ね、イラストブックシリーズ化の嚆矢に。
10月12日、創立55周年を迎えた。